武田信玄は自らの死を前にして、息子の勝頼に上杉謙信を頼るように告げた。長年の宿敵である謙信に、武田家の未来を託す気持ちになったのか。著者はこれを、謙信の宣伝戦の効果であると考える。川中島合戦において、信玄によって鍛えられ、身に付けた謙信のプロパガンダとは?(JBpress)
息子を宿敵に託した武田信玄
元亀4年(1573)、甲斐の武田信玄は死を前にして、息子の勝頼に遺言を告げた。
「謙信と和睦せよ──(勝頼弓矢の取様、輝虎と無事を仕り候へ)」
武田家にとって長年の宿敵である上杉謙信と停戦し、和睦するよう伝えたのである。理詰めの思考を好む信玄は、続けてその理由も述べた。
「謙信は勇ましい武士だから心配はいらない。若いお前の弱みにつけこむこともないだろう。みんなで『頼む』とさえ言えば、間違いが起きることもない(謙信はたけき武士なれば、四郎わかき者にこめみ(小目見)する事有間敷候、其上申合せて頼むとさへいえば首尾違ふ間敷候)」
謙信の人格をずばりと評論して、後事を託すに値するとして言っているのだ。そして自らの後悔も告げた。
「わたしは大人気なかったので、謙信に『頼む』と言うことができず、とうとう和睦することができなかった(信玄おとなげなく輝虎を頼と云ふ事申さず候故、終に無事に成事なし)」
だが勝頼ならできる──と信玄は考えたのだ。
「必ず謙信に『頼む』と言うのだ。そうすれば、お前に悪いことはしない。それが謙信という人間である(必勝頼謙信を執して頼と申べく候、さように申、くるしからざる謙信也)」とまで言った(『甲陽軍鑑』品第39)。
武田信玄は、人の弱点を探し出し、そこを攻めるのが得意な武将であった。謙信のこともよく観察して、その欠点を熟知していた。それでもなお若い息子には、信頼していい大将だと言い残したのである。
なぜ信玄は宿敵に、息子と家臣団──すなわち武田家──の未来を託す気持ちになったのだろうか。わたしはこれを、謙信の宣伝戦の効果であると思う。
宣伝戦というと、現代的なプロパガンダを想像する人も多いだろう。
現代的な意味でのプロパガンダは、17世紀のキリスト教組織が異教徒に信仰を普及させる運動に起源があると聞く。もともとは軍事や戦略とは関係なく、「真なるもの善なるもの美しきもの」を伝えるためのものであった(小西鉄男『プロパガンダ』)。
そういう意味では謙信のプロパガンダも、今日的な意味ではなく、この宗教的色彩が色濃いように思われる。謙信は、当時としても異質な宣伝戦を採っていた。
それは、義の心による波紋の広がりである。普遍的に人間の胸を打つ、精神の実践に注力したのである。
若年期の謙信
若い頃の謙信は、その権力基盤が脆弱だった。
何せ長男ではなかった。つまり国主、大名になる予定などなかったのである。
越後は上杉定実という守護職の人がトップにいた。ところが謙信の父である長尾為景がその実権を奪い、専制的な行政を行うようになった。やがて為景が亡くなり、長男の長尾晴景が跡を継いだ。
その晴景は病弱だった。満足に国政を執ることができず、大きな謀反が起こった。晴景にはこれを鎮圧する力がない。そこでやむなく弟の謙信が出征した。14歳ごろから「代々の軍刀」をもって戦場を疾駆してきただけあって、これを即座に鎮圧した。鮮やかな手並に長尾家臣たちは目を見張った。かれらは謙信にこの国を統治してほしいと願い、晴景の家督移譲を支援した。
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この時、謙信はこれを私利私欲の“下克上”と思われたくないと考えたらしい。兄の幼い長男を養子にするという約束で、中継ぎ当主の座についた。それで“生涯不犯”を通したのだ。
ほどなくして、守護職の定実が老齢で亡くなった。跡継ぎはいなかった。その頃、将軍から国主待遇を与えることが約束されたが、ついで引退した兄・晴景も病没した。さらにその長男も体力がなかったらしく、幼くして早世した。
すると謙信は、「単に多くの国内領主たちから支持されている」ことと「将軍から国主にしか使えない白傘袋と毛氈鞍覆の使用許可を与えられた」という以外に、確たる法的根拠のないまま、国政を担うことになった。社長が永久不在と確定した状態のまま、専務取締役の肩書きを続投するようなものである。
すると、謙信は中央政府である幕府からの信頼、国内領主たちからの支持を固めるしかない。大きな実権を持ってはいるが、まともな正統性が欠けているのである。こんな難しい舵取りをしているところへ大きな危機が迫ってきた。信玄が隣国を併呑しようとしていたのだ。信濃諸将が謙信に救援を依頼してくる。
信玄は甲斐守護職である。為政者としての正当性は問題ない。これに比べて謙信の立場は、大いに見劣りがする。これで争うには、普遍的な正義を掲げるしかなかった。
信玄に鍛えられていく謙信
上杉謙信は、武田信玄と戦いながら、その軍制と戦略、そして用兵を短期間のうちに高度化させていった。
両雄が対峙を繰り返した川中島の戦いは、信濃北部の覇権をめぐる地域紛争の形ではじめられた。信玄が北信濃侵攻を本格化させると、苦境に陥った現地の将士が謙信に救援を求め、謙信は国土防衛上の観点からこれを快諾した。
当初のうちは、単純な武力行使で片付くと思っていたようだ。ところが信玄は執拗に侵攻を繰り返し、謙信も必死の思いで対策を練ることになった。
越後は湾口都市が林立し、鉱山資源にも恵まれていて、経済的には他国へ進出する理由などない。それでも北信濃を守るには現地の支配権を確立しなければならなかった。
そこで謙信も信玄同様、国内の統制を強化したり、現地に城砦を新築したり、味方を増やすための権威付けを図ったり、または現地将士の内応を受け入れたりと、戦国大名らしい戦略を実行していく。
信玄と停戦交渉を進めるとき、どの城を取り壊して、どれを残すかという取引きのような話し合いも行った。もちろん、信玄の野心がこれで終わるはずもないのは見えている。だから当然、停戦の取り決めも次の戦いに備えて、先を読む必要があった。
このようにして、はじめ戦術規模の局地戦だった川中島の戦いは、戦略規模の紛争へと拡大されていく。信玄はどんないやらしい工作も厭わない。信濃だけでなく、謙信に逆心を抱く家臣や北陸の領主たちを扇動してでも、謙信の力を削ごうとした。目的のためなら手段を選ばない。こんな恐ろしい人間と争うことは、想定外の初体験だっただろう。ここに謙信は、本人の望みと関係なく、自身もまた信玄に並ぶ戦略家とならざるを得なくなっていく。
義戦の決意
弘治3年(1557)1月20日、謙信は信濃将士の要請に応じて武田信玄との合戦を準備し、信濃の更級郡八幡宮に願文を捧げた。ここに第3次川中島合戦が始まる。
願文では「武田晴信(信玄)という佞臣は、ただ国を奪うためだけに信濃の諸士をことごとく滅ぼし、神社や仏塔まで破壊して、民衆の悲嘆は何年も続いている(武田晴信佞臣、乱入彼信州、住国之諸士悉遂滅亡、破壊神社仏塔、国之悲嘆及累年)」と武田信玄の信濃侵攻を非難し、「晴信(信玄)に私的な遺恨はないが、信濃を助けるため闘争する(何対晴信、景虎可決闘諍無遺恨、依為隣州国主)」と宣言している。
先述したように、謙信は守護職なきその代役程度の身分で、越後を実効支配しているだけの私権力である。対する信玄は甲斐守護職で、まったく正当な公権力である。こうした格差を埋めるため、謙信は、普遍的な善悪と正義を持ち出して武田家に対抗しようとしたのである。
ここに、理想と現実を結ぶ概念として「義」の意識が生まれた。
正戦思想の確立
謙信が北信濃に出馬すると、小菅神社へ立願する5月10日付の文書で「義をもって不義を誅する(以義誅不義)」と自らの意気を表明した。
そしてこれまでの鬱屈をぶつけるかのごとく武田軍に肉薄した。8月には川中島北方の上野原(長野市上野)で戦闘した。合戦後、副将の政景が家臣への感状に「勝利を得た」と記しているので、一定以上の戦果を得たと見られる。しかし、互いの勢力図は大きく変わることなく、両軍痛み分けのまま撤退した。
ただ、ここで注目すべきは、謙信の宣伝戦として、「義」が持ち出された事実である。謙信は正しい戦争と、そうでない戦争があるという考えの持ち主だった。この時よりそれを公的に明言するようになっていくのである。
謙信がここで自らを「義」、信玄を「不義」の側に置く根拠は、北信濃の将士の要請に応じて、自分はどこまでも、かれら現地の人々と共にあるという立場を通したところにあるだろう。
ここで、大河ドラマ『武田信玄』で柴田恭兵演じる政虎が着用していた、飯綱明神の前立を誂えた甲冑を思い起こしてもらいたい。いろんなドラマや絵画で同形の前立て兜を着用した謙信の姿を見たことがあるだろう。この武装には実際のモデルが実在する。上杉神社に保存されている「重文 本小札色々縅腹巻 附黒漆塗具足」である。
ただ、実際には合戦で使われたことがないと見られている。
というのも現品調査によると、実践用の防具につきものの「使用痕」がほとんどなく、太刀掛韋も付していないことから、儀礼用である可能性が高いというのだ。
信濃北部には「飯綱山」と「飯綱神社」があるように、飯綱信仰の源泉地であった。するとこの甲冑は謙信が、川中島合戦に赴く際、現地将士や民間人の協力を得るため、その信仰を最大限に尊重する姿勢を示すのに用いたのだろう。出陣式や社参の場で「祭りなら、俺の中にある」とばかりに、着用したと考えられる。
ただし、単なるポーズではなかったはずだ。
なぜなら、永禄3~4年(1560~61)の越山で関東全土の将士が味方となっているからだ。この時の謙信は、関東の大名に「依怙による弓箭は取らず、ただ筋目をもってどこだろうと合力していく(依怙不携弓箭候、只々以筋目何方へも致合力迄候)」と豪語しており(永禄3年[1560]4月28日付佐竹義昭宛書状)、義戦であることを強調している。
これが口先だけのものならば、気骨ある関東武士が謙信のもとに集まろうはずがない。越山当時、関東の僧侶も謙信は信心深いので期待できるという世評を書き残している。こうした評価は、現地を疎かにしない敬意の払い方を、信濃で継続し続けた成果だろう。謙信は川中島を介して、効果的な宣伝戦の仕組みを学び、それを実践することで、自らのブランド力を固めていたのである。
そもそも利害で人の心を操る技量で、信玄にかなうわけがない。ポーズや格好だけそれらしく飾ったところで、現地の支持を得られようはずもない。
そこで謙信は、その装いに説得力を与えるため、普段からの言動が善であり、美であるように心掛けていったと考えられる。謙信のプロパガンダとは、表層的な評価の獲得ではなく、奥底から人々を心服させる精神性の誇示にあった。
その後も謙信は、義の一文字に恥じない行動を心がけており、敵地の被災地に補償金を送ったり、当時の関東で当たり前だった戦争捕虜の身代金獲得を否定させたりしている(謙信の人身売買として誤解され続けている事件だが、その詳細は後日に語ろう)。
人々を制度や圧力で屈服させるのではなく、おのれの個性を惚れ込んでもらうことで、自発的に服属してもらえるよう努めたのだ。
公的な守護だった信玄に、私的な権力者である自分が立ち向かうにおいて、必要なのは他者からの支持であり、その獲得のためには、人間の心に向けてだけでなく、神仏の心をも納得させるプロパガンダとして、「真なるもの善なるもの美しいもの」の追求と実践が欠かせなかったのである。
こうして戦国乱世に「義将」の誕生という奇跡が生まれた。
劇場公開日 1990年6月23日
監督 角川春樹
そのとき敵の矢が頭にカーン…矢がカーン…ヤカーンΣ(゚Д゚;≡;゚д゚)スベッタ
これに忠実だったのが、ほぼ信長ひとりで、信玄も謙信もその思想は無かった。
信長が死ななかったら、天皇をも廃し、明治維新より強力な中央政権政府を作ったろう。
それに反対したのが光秀であり、私怨で信長を倒したのではない。
結局は、秀吉と家康では、中途半端な中央集権しか実現しなかった。
つまり信玄や謙信は、高々、家の存続と繁栄という観点からの戦国であった。
信長は、国の統一と支配という観点を持っていた。さらには帝国主義的な
海外制覇も視野に入れていた。
信玄はともかく、謙信は室町幕府の権威回復による再統一を目指してたんじゃないの
自身も関東管領としてその役割を担おうとした
戦国時代の多くの武将は室町幕府の再興、もしくは自身の代替による
守護大名の支配体制までは考えていた。
それと信長の構想は全く違う。旧制度を破壊し、天皇を廃し、新たな
中央集権を構築すること。そして海外に進出し帝国支配をすること。
問題は信長が誇大妄想を含む何らかの精神病に罹患したこと。
信長の人生の後半は精神病が進行し、家臣の多くも懸念していた。
光秀の信長討伐の理由のひとつである。
信仰心と正義と不犯を貫くことで自分に
暗示をかけてる。
しっかりと突き放すこと
こういうスレ自体がやつらのプロパガンダになり得る
成り上がり大名にとっては支配・上下の正統性も戦場だった。
そこを考えると武田は先天的な優位が多すぎる。なぜもっと伸びなかったのか。
正統性と金山はあるが、海が無く、米もあまり取れない(平地が少ないため
今川が弱体化し、ようやく海を手に入れたときには信長は畿内をほぼ掌握していた
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