1945年の夏、米国が世界で最初の原子爆弾を投下したとき、戦争は永久に変わった。
たった1個の爆弾が、都市とその住民を丸ごと消し去ってしまう時代が訪れたのだ。
米国は、7月にニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の爆発実験を行った後、8月に日本の広島と長崎に原爆を投下した。
だが、長崎への投下から日本が降伏するまでの6日間、米国はこれで終わりとはまだ考えていなかった。次の原爆投下は間近に迫っていた。
長崎への投下で米国は原爆を使い果たしており、降伏しなければさらに原爆を落とすというのは
ハリー・トルーマン大統領の脅しだったとする主張が根強くある。しかし、それは決して単なる脅しではなかった。
第二次世界大戦末期、米国はできる限りの原子爆弾を製造していた。
そして日本が降伏する直前まで、第3の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。
1945年8月15日に日本が降伏するわずか数時間前、米国時間では14日、英国の外交官を前にトルーマン大統領は沈痛な面持ちで、
第3の原爆投下を命令する以外に「選択肢はない」と漏らしていた。
戦争があと数日続いていたら、第3、そして第4、第5の原爆投下の可能性は著しく高まっていた。
米国は、1回目の原爆投下によって断固とした意思表示をしたかったため、最初の攻撃目標の選定には慎重な議論が重ねられた。
科学者と主な軍の代表が率いるマンハッタン計画の目標選定委員会は、1945年4月(ドイツ降伏の約1週間前)に第1回目の会合を開き、目標都市の選定に入った。
候補地として「ある程度広い都市地域で、目標自体は直径3マイル(4.8キロ)以上あり…東京と長崎の間にあって…戦略的価値が高いこと」との基準を設け、
具体的に東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、八幡市、小倉市、下関市、山口市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市の17都市を検討した。
同年5月の会合でリストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られた。
京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、最有力候補に挙げられた。
同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、
爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた。
6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せ、これら4都市への空襲を禁止した。
5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外された。また、京都もそのすぐ後にリストから外され、空襲や原爆を含め一切の攻撃が禁止された。
ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したためだ。
マンハッタン計画の軍部責任者だったレスリー・グローブス少将はこれに強く反対し、京都は価値の高い重要な目標であると繰り返し主張したが、
最終的にスティムソンがトルーマン大統領を説得し、リストから外された。
京都を外したことで、悪天候などに備えて、もう一カ所広島と小倉の近くにある都市を加える必要があった。
長崎には捕虜収容所があり、地形もそれほど好ましくなかったが、港湾都市で軍需工場が2カ所あったことから、長崎をリストに加えた。
最終的な攻撃命令の草稿はグローブスが作成し、トルーマンが閲覧した後、スティムソンとジョージ・マーシャル陸軍参謀総長によって承認され、7月25日に発効された。
トーマス・ハンディ参謀総長代行からカール・スパーツ太平洋戦略航空軍司令官に送られた命令書には、次のように書かれていた。
「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。
投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。同行するのは観測用航空機数機に限ること。さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。
初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。
それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=1
そんなことはない
当時のアメリカの意向を知っておくことは大いに意味がある
俺がアメなら1日で5~6発落とす
数日程度では重巡と一緒に一発喪失したのもあって
物理的に投下まで持って行ける数が足りないでしょ
引用元: ・【第二次世界大戦】 戦争があと数日続いていたら、第3、第4、第5の原爆投下の可能性が高かった [影のたけし軍団★]