豊臣秀吉肖像(高台寺所蔵。Wikipediaより)
大航海時代を開始したポルトガルとスペインは、戦国時代の日本にとって危険な国でした。日本はこの二国、とくにポルトガルの脅威にさらされていました。
織田信長や豊臣秀吉は、おそらく常にその脅威がいつも頭から離れなかったはずです。イエズス会は兵器や科学技術をもたらしましたが、日本の征服も考慮していました。しかも、1580~1640年にはスペインとポルトガルは同君連合となり、一つの帝国(スペイン・ポルトガル帝国)を形成し、より強大化していました。
1580年と言えば本能寺の変の2年前。秀吉が関東・奥羽征討し、全国統一をするのが90年です。ということは、秀吉の時代は、すでにスペインとポルトガルが一体化していた時代、さらに相手は強大化していたのです。秀吉の治世の朝鮮出兵は、そのことを理解すれば、これまでとは違った角度から見えてくるでしょう。
反カトリック政策への転換
織田信長がイエズス会を重用していたことはよく知られています。もちろん、そこには、イエズス会は武器をもたらしてくれ、彼らを通じた南蛮貿易によって利益を獲得できると考えていたからでもありました。秀吉も、当初は信長と同様、キリスト教(カトリック)布教を容認していましたが、1587年の九州平定後、長崎がイエズス会領となっていることを知り、大きな怒りを感じます。
1587年6月18日には「天正十五年六月十八日付覚」を、翌日の6月19日には「吉利支丹伴天連追放令」を出します。要するに、イエズス会に、キリスト教の宣教は許さないという態度を表明したのです。ただし、貿易の継続は許しました。
この直後、秀吉は長崎をイエズス会から取り上げ、天領としました。この頃、イエズス会は神社仏閣を破壊してキリスト教の教会にし、武装も進めていました。さらに当時のイエズス会の世界戦略=世界のキリスト教化を考え合わせるなら、秀吉の措置が過激で狭量なものとは思われません。秀吉にとって重要なことは、キリスト教が過激化せず、それまでの日本の宗教と並存し、貿易による利害をもたらすという点にあったのです。
イエズス会はカトリックの布教を目的とした団体でした。しかしそれとともに、日本に武器を輸出することで巨額の利益を得ていました。一方で彼らは、日本が必要としていた中国の生糸を、ポルトガル領となっていたマカオから長崎へと輸送していました。このように、イエズス会との取引は、日本にとっても必要だったのです。
戦国の理論・拡大の理論
秀吉は、1590年に小田原の北条氏を征服し全国統一を成し遂げると、1592年と1597年に朝鮮へと侵略軍を派遣します。
これは、結果だけ見れば大きな失敗でした。この戦争を仕掛けなければ、多くの大名の財政を悪化させることもなく、豊臣政権はもっと長続きしたかもしれません。
1592年に始まった「文禄の役」における釜山鎮の戦いを描いた『釜山鎮殉節図』。左側に密集しているのは上陸した日本の軍船(Wikipediaより)
ただ現実に秀吉が選んだ行動は、戦国時代の理論に基づくなら十分理解できるものです。それは、いわば「拡大の原理」です。大名は、戦争で勝って領土を獲得したなら、その一部を配下の武士たちに与えます。だからこそ武士たちは、主君である大名についていくのです。
秀吉は、とくに気前の良い大名でした。秀吉は貧しい農民の倅なので、もともとの子飼いの大名がいなかったことがその理由として考えられます。秀吉の力が強大化する中で、どんどん増え続ける家臣らに対する求心力を維持するためには、とにかく領地を分け与えたりする必要がありました。そして家臣団がさらに膨らんでいくのなら、新しい領地を獲得しなければなりません。そのために大陸に目を付けた――という理屈には妥当性がありそうです。
組織と言うのは右肩上がりでないと、維持するのが難しいものだ。
豊臣秀吉の考え
ただし、それだけではなかったようです。これに関連して、歴史学者の平川新氏が最近非常に大胆な説を唱えています(『戦国大名と大航海時代――秀吉・家康・政宗の外交戦略』中公新書、2018年)。
平川氏は、日本はなぜスペインの植民地にならなかったのかという疑問を投げかけます。
平川氏は、秀吉の朝鮮出兵によって、スペインは日本の軍事力の強さを知り、日本征服を諦めたというのです。そしてこのとき刻み付けられたら「軍事大国・日本」というイメージは、イエズス会やスペインでその後も強く意識され続け、徳川の時代にまでひきつがれたというのです。
確かに戦国時代になって、日本は世界有数の軍事大国になりました。もちろんそれは火器をポルトガル人から導入したからです。1543年にたまたま種子島に漂流したポルトガル人が、この島の人々に鉄砲を伝えたとされています。
ですが、現在では、鉄砲は複数のルートから伝えられたという説もあります。事実はよくわかりませんが、ポルトガル人(おそらくイエズス会士)から伝えられたということは間違いないでしょうから、もしかしたらポルトガル人は、日本に武器を輸出したかったと考えられないでしようか。
世界を二分するイベリア半島の二国
一方のスペインとポルトガルについて見てみましょう。
1494年のトルデシリャス条約により、世界はスペインとポルトガルによって二分されることになりました。どういうことかと言えば、ローマ教皇によって、西経46度37分を分界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられることとなったのです。この「新領土」というのが曲者で、そもそもヨーロッパ人はアメリカ大陸に先住民がいたのに新領土としたのですから、考え方によっては、どこだって「新領土」と言って侵略することができるのです。
カトリックの理論によれば、世界は神が創造したものです。つまり世界は神のもの。その神の持つ権利はローマ教皇に委ねられているわけですから、ローマ教皇のお墨付きがあれば何でもできる、という理屈になってしまうのです。
そして世界の覇権争いを繰り広げたイベリア半島のこの2国は、1580年から1640年にかけては一つの帝国となります。スペインがポルトガルを併合し同君連合となった時代です。ということは、カトリックの理屈で言えば、「スペイン・ポルトガル帝国が世界を支配することになった時代」なのです。スペイン・ポルトガル帝国が本当に一国として機能したかどうかは別として、それはこの時代を生きた信長、さらには秀吉に大きな脅威だったはずです。
しかし、この強大な帝国の出現を前にしても、秀吉は彼らに恭順するような考えは持ち合わせていませんでした。スペインが世界の植民地化を目指し、明朝中国を狙っていると見抜くと、「スペインに明を征服されるくらいなら、自分が」と考えた。それが朝鮮出兵の本当の動機でした。さらには朝鮮半島、琉球、台湾、さらにはフィリピンをも服属させようとしていたばかりか、ポルトガル領インドを征服したいという意志さえもっていた――それが、平川氏の考えです。
そんな構想を立て、朝鮮に出兵できたのも、日本の軍事力がきわめて強かったからです。平川氏の説が真実ならば、秀吉の本当の野望は、アジアに進出してきたスペイン・ポルトガル帝国を退け、日本の領土を拡大することにあったかもしれません。
近年の欧米の研究を見ても、16世紀後半から17世紀初頭にかけ、スペインが日本の軍事力を恐れていたということが言われるようになりました。そもそも南アジア各地に南洋日本人町があり、日本人は積極的に海外に進出していました。そうした海外ネットワークに加え、世界有数の軍事力を備えていたのですから、日本という国がスペインにとって脅威であったとしても不思議ではありません。少なくとも、そう易々と侵略できるような国には見えなかったはずです。
スペインは、ポルトガルに少し遅れて1571年にフィリピンにマニラを建設することで、本格的にアジアに進出するようになりました。そのスペインとポルトガルからなるスペイン・ポルトガル帝国と対峙するため、秀吉は日本からインドに至る帝国の形成を考えていたかもしれないのです。
この説にはまだ推測の部分が多く、確定した事実とは言えませんが、スペイン・ポルトガル帝国が日本に与えた脅威により、秀吉の対外政策が大きく動いた可能性は十分あると考えられるのです。
を大勢、参戦させてお金をドンドン
使わせて 勢力を削ごうとしてのこと
朝鮮出兵というのは誤り
正しくは「秀吉の朝鮮征伐」という
朝鮮出兵では単に朝鮮に兵を送ったという意味しかなく
何故送ったのか動機が全く表現できない
秀吉は朝鮮を征伐する為に朝鮮に兵を送ったのであるから
正しくは朝鮮征伐である
反論ある奴は掛かって来い