北部九州と近畿地方の、弥生時代から古墳時代前期の遺跡や遺物などを紹介する企画展が、佐賀県の吉野ヶ里歴史公園で開かれています。
この企画展「よみがえる邪馬台国」は、佐賀県教育委員会などが毎年開いていて、邪馬台国があったと考えられている九州と近畿の出土品を展示しています。
ことしは、現在の北九州市から大分県北部にあった「豊前の国」に焦点をあて、大分県宇佐市のほか、吉野ヶ里遺跡や兵庫県内の複数の遺跡から出土した土器や青銅器など、およそ400点が展示されています。
このうち、大分県宇佐市の赤塚古墳から出土した「三角縁三神三獣鏡」は、直径およそ22センチの大型の銅鏡で、6体の神獣が描かれ、中国から卑弥呼に贈られたという説もあります。
また、大分県宇佐市の切寄遺跡から出土した「中広銅矛」は、祭祀に使われた大型の矛です。
佐賀県内の遺跡から同じ形の鋳型が出土していることから、佐賀をはじめとする北部九州で生産され、その後、宇佐に伝わったことがうかがえるということです。
吉野ヶ里公園管理センターの小林昭彦歴史専門員は、「企画展を通じて、吉野ヶ里遺跡と豊前の国との関係性を見直してほしい。邪馬台国があった場所として考えられている九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」と話していました。
この企画展は、吉野ヶ里歴史公園の「弥生くらし館」で、11月8日まで開かれています。
09月23日 12時34分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20200923/5080007088.html
★1:2020/09/23(水) 14:12:50.82
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1600837970/
畿内な
アテンションプリーズ♪
そもそもヤマトは九州から近畿に移動してるんだから出土品云々やっても混乱するだけ。
神武東征してるんだから。
無いなら、邪馬台国はなんで完全消滅したん?
奈良に滅ぼされ、その名(邪馬台やまと)を奪われた。
漢の時代、朝貢を握り列島に君臨した邪馬台(やまと)、
すでに列島の歴史的権威となっていたわけだ。
だから、奈良がその名と権威を継いだ。継ぐしか無かった。
狗奴国の戦争に敗れ、連合国家の崩壊した邪馬台国の末裔は日田、玖珠から駅館川を下り宇佐に細々と残っていました。
これと婚姻関係を結んで瀬戸内海を東進していったのが九州生まれの王イザサワケです。
イザサワケの母親は半島南部の倭人国家、多羅の王族オキナガタラシヒメ。
イザサワケは現在の韓国人とは何の関係も無い、半島南部に居た倭人の血を引いています。
これらの事情を物語っているのがイナバの白ウサギの伝説でしょう。
卑弥呼が死んだ後、2代目親魏倭王が傀儡政権になった時点で実質崩壊した
卑彌呼は、事実上、奈良の傀儡に等しい政権だよ。
邪馬台の覇権放棄の証として即位した女王だ。
魏誌倭人伝にある通り、奈良に港を押さえられ自由が無い。
卑彌呼の死後、覇権復興を夢見て男王が立つが、愚挙w
また戦になって負けて、女王(壹與)に戻した。
朝貢用の表向きの「倭国盟主」として生かされたが、
4世紀華北崩壊に伴い、奈良から滅ぼされた。
1世紀 奴国王が後漢より金印を授かる(福岡志賀島)
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
3世紀 倭王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国(免田式土器?)が対立
3~4世紀 奈良の纏向遺跡(前方後円墳発祥?) 北九州との交流は非常に乏しい
5世紀 奈良の大和王権が北九州~関東を平定
4~8世紀 熊本の球磨川と宮崎の一ツ瀬川以南に独自の古墳文化(熊襲)
6世紀 筑紫磐井が大和王権に反乱
7世紀 乙巳の変
8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱
ひょっとして、九州北岸地域にいい顔をしたい大和政権派遣軍が
ご機嫌取りのために滅ぼしてしもたんかもな。
ないよ。臨時的な女王だからね。
30ぐらいの連合国。死後に男王。
でもまとまらず、トヨを立てる。
隣国に吸収されたかも?
>>78
間違ってはいけない。
纏まらなかったのは邪馬台の30余国ではない。倭国だ。
女王卑弥呼を「共立」したのは、30余国ではない。倭国だ。
倭国大乱の当事者たちだ。つまり邪馬台は大乱に負けて、
覇権放棄(男王禁止)を和議条件として飲まされたわけ。
卑彌呼の死後、覇権復興すべく男王が立つも、また負けて
またまた女王壹與の即位となる。
根拠は?
いつもそいつは思い込みだけで根拠はないお爺だよ
>>87
魏志倭人伝をちゃんと読め。教科書にウソに洗脳され杉
読めば誰が「共立」の主語か判る。そしたら意味は一つ。
大倭(←奈良!)が港を管理してる様子も書かれてる。
もっとも、「大倭を使い之を監す」となっていて、
恰も表向き倭国盟主邪馬台の配下の何者かの様な書きぶり
になってる。しかし、その正体は隠されている。
大乱で奈良に負け、港をがっちり押さえられてた訳だ。
奈良ではないよ。
30ぐらいの国々の倭連合国だが、それ以外の国々を含め正式な代表として大きな倭を使った。
>>98
大陸向けの表向きの話を信じてどうすんのw
漢の時代は奴国が倭国代表の顔して朝貢してて、
その裏には邪馬台が居た訳で、だからこそ、
倭国大乱でその邪馬台を下した奈良が邪馬台を朝貢に
出すという屈辱を与え、列島の覇者が誰なのかを
列島内に示したわけだ。
勿論、魏志倭人伝に書かれた通り、港を押さえて
朝貢の利益は全部奈良が頂きだよ。
出土に鉄器が少ないよ。
記紀も眉唾もん。
>>102
記紀は、そりゃ、邪馬台は無かったことになってて、
代りに祖先の神が西の地から奈良に東遷したことにしてる。
だが、神武東遷までを神代、東遷以降を人代と明確に
分けている。このことは、西の政権を滅ぼしてその権威を
継いだということの現れ。
鉄は、ふんだんにあってコモディティ化しない限り、
どこ掘っても出る状況にはならないだろ。
奈良は、百濟と通じ鉄を入手したと推測されるが、
量が限られ、貴重な軍事物資として厳しく管理した???
奈良が鉄を入手し始めたのは3世紀後半以後と推測するかな。
3世紀中ごろに崇神大和政権が誕生したなら、
記紀によれば朝鮮半島との交易を始めたのは3世紀後半だろうからな。
違うと思う。魏志ではすでに、距離、方向が
知れ渡り、国防を考え近畿に移動
先行として開墾が始まる。国防最前線なので大きな人口移動できず、吉備東海勢を利用した。
なので近畿東海式の土器や木製器具大量に出土する。
九州内部で戦争してるような状態で、他地域に手を伸ばせるとはとても思えないな。
だから、女王を立てた。その後男が立つが乱れる。トヨを立てる。開墾を任されたが神武だよ。
戦争やりながら新天地開墾できるのは、奴国ぐらい。神武には兄がいる。一族残す事も考え新天地開墾。戦争ばかりで食料生産は、どうするの?
ムリ。東遷できる政権が無い。
魏志倭人伝には、奈良に支配されてる
無様な邪馬台の姿しかない。
九州にある邪馬台国から
分捕ったが近畿奈良
一考あるかもね
僕は、邪馬台国が九州北部では最大領域を誇る倭の一国で最大勢力を持っていたが、
中身は十か国以上存在する連合政権だったのでまとまり難かったんじゃないかなと思ってるかな。
周りの国々も1つにまとまられるのにちょっとした脅威を感じてたかもしれんしな。
現代、中国が分裂してくれた方がちょっと安心かなと周辺国が感じるのに似てるかも。
>>13
安本美典 邪馬一国(やまいちこく)はなかった 1988(徳間文庫)
九州説派の「邪馬壹/台国」は近畿/奈良に滅ぼされたというのは
説明責任を放棄した「敵前逃亡」、
「ネット上の恥はかき捨て」、「あとは野となれヤマトなれ」
日本の呼称は瑞穂の国など美称はあるが
そもそもは大和の国
大和魂は言葉の意味が判るが日本魂はこなれていない
日本は中国語の漢字から成る国名
JapanもNipponもここから派生
いろんなアンケートを総合すると、6対4の比率くらい
とくに5ちゃんねらーは圧倒的に九州説
9対1くらい
専門家は99%畿内説だけど
専門家()だよなあw
邪馬台国スレで大騒ぎしてる九州信者はノイジーマイノリティだからな
陰謀論者とかUFO信者の仲間
まさにノイジーマイノリティだな
一般人が漠然と九州かなあと思うのと違い、5ちゃんねるの九州説は狂信的
前スレでも、何十レスも必死に書き込んでるのはすべて九州説
卑弥呼の時代に入った2世紀末には大飢饉が派生し、多くの倭人が半島に避難したとのこと。
九州で出土する畿内式の土器は、畿内から多くの避難民が移住してきたという証拠でしょう。
<新羅本記>
173:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。
3世紀~4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。
『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。』
>>32で半島に渡った畿内からの避難民が戻ってきたのが4世紀末
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
~ 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の ~
建築年代は4世紀末~5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
~ 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅)
人は記憶型と思考型に大別できる
自郡至女王國、萬二千餘里
倭人伝には女王王国まで1万2千里と書いてある
でな、北部九州の沿岸部までで1万里なんだわ
よって、そこから2千里の距離にある
正確な距離なんてその時代に分かる訳ないやん
書いた奴がいい加減に書いただけ
↓こいつら頭大丈夫か?漢代や魏の書物が呉音で書かれてると思ってるみたいだぞ
995不要不急の名無しさん2020/09/24(木) 23:43:28.26ID:QQHtsoyq0
>>993
あのさ、俺、九州説なんだけど。(俺は>>941じゃないよ。)
それから、まさか、漢音が漢の時代の音とか思ってないよね?
頭大丈夫か?
996不要不急の名無しさん2020/09/24(木) 23:45:37.68ID:hww3si+L0
>>993
魏が呉音というのは中国では常識なんだとさ
ま、まさか、呉音が、呉の国での発音だとか思ってない??
恥の上塗りとはこのことかwwwwwwwwww
>>51
今音(現代音)と古音(古代音)と分けて、古音をさらに上古音-中古音-近古音と分けた場合、
上古音-中古音の間にあるのが、漢や魏なんだが、これ全部、漢音の歴史な
呉音は地方の方言でしかない
日本で古墳時代に呉音が普及したのは、仏教伝来前後に百済が建康(今の南京市)から仏教を学んでたからその影響な
漢音の言い回しで書かれた魏書を呉音で誤読しようが、それは漢人魏人に笑われるだけ
漢音は、漢の音じゃないよ。唐の時代の音。
遣唐使が持ち帰った新しい「漢」語の音。だから「漢」音。
当時、唐の都・長安では、南方の音(古い音)を
「呉音」と言って馬鹿にしてたから、その語も持ち帰って、
日本に従前伝わっていた音を「呉音」と言うことにした。
呉音は単に地方の音ではない。漢語の音は北から南へだ。
漢も魏も南方じゃないぞw中原や漢中だw
その辺の中華が漢語漢音中心じゃなくなるのは金や元に征服された時くらいだろw
漢が終わって三国時代だが、四世紀に入ると北方諸民族の
進入で華北が崩壊。以後300年近く、華北の混乱が続く。
この間に北方諸民族の影響で華北の音が大きく変わる。
隋/唐が再統一を果たした時、都の音は大きく変わっていた。
一方、昔の音は南に残る。
中国の歴史はこの繰り返し。漢語の音は北から南へ。
四世紀の華北崩壊で朝貢秩序が消失。東亞は実力の世界に。
その結果、日本では、奈良が列島を統一し大和となる。
一方、半島では、新羅と百済による地域統一が進む。
そして大和朝廷は半島に打って出るが、5世紀初頭に高句麗に
ボロ負け、半島南部の利権を守る為、南朝に朝貢(倭の五王)。
一方、華北は混乱したまま(南北朝時代)で、統一となるのは
6世紀末の隋、7世紀頭(618年)の唐だ。遣隋使・遣唐使の時代だ。
中国に仏教が入るのが、この南北朝時代だ。
特に北魏(鮮卑・拓跋氏の王朝)で仏教が広く取り入れらた。
5-6世紀の石窟寺院は有名。これが半島経由で日本へ。
仏教伝来 538年とか(百済から)。
>>60
その時代は北方民族が天下とっても蛮族と思われたくないのか知らんが、
漢民族のやり方を踏襲して漢語で政治行ってる
それ以前に文字を持たなかったので漢語を導入するしかなかったのだが
漢語圏を無理やり北方語中心にしようとしたのはもっと後の遼くらいだ
3代も持たず、すぐ後の制覇者は強制しなくなったがな
だから、その漢語が北方民族の音の影響を受ける。
当時の漢語に発音記号なんて無いんだからw
呉音が漢音より大きく変化していないと言うのは思い込みでしかないだろ
日本でも離島の方が古語を使ってるかと言えばそうじゃないし
>>68
古い音は周辺に残る。ドーナツ現象。
沖縄には古い日本語が残ってる。
東:あがり 西:いり ・・お日様の運行だな。
あがり(上がり=東)→あがり(明かり)→あがるい(明るい)→あが(赤)
これらの発音は、東北にも残る発音だわな。
お日様のあがり(上がり)が近付くと、あがり(東)の空に
あがり(明かり)が見え、あがい(赤い)お日様が顔を出すと、
一面あがるく(明るく)なる。
こういうのも一見ドーナツ状に見えるがただ近畿圏が特殊なだけで
ドーナツと言うより近畿圏が異民族かのように周囲に侵食してるだけ
近畿から離れていると古い言葉とみなすのは特殊な例を挙げただけのこじつけでしかない
現に歴史上は琉球国として、明治以降に東北から多くの教師が琉球に渡った経緯があるのでその日本語教育の影響の可能性さえある
詭弁を弄するなかれ
古墳時代以後、瀬戸内海の海運を軸に日本が発展してきた証拠なんやろな。
奈良→大阪→兵庫→岡山→広島→山口→福岡→大分→愛媛→香川→徳島→和歌山→奈良を結ぶ
環状高速道路や環状新幹線を建設して日本古代史名所巡りとかあってもええんかもな。
TSP(Trans-Setonaikai Partnership Agreement)を締結してみるのもいいかも。
魏志 邪馬壹
後漢書 邪馬臺
隋書 邪靡堆 「魏志所謂 邪馬臺 者也」
後漢書注 邪馬臺 「案今名 邪摩惟 音之訛也」
リンクを貼ると書き込み禁止になるのでもどかしいのだけど・・・
判らない言葉は自分で検索してね。
魏志 邪馬壹
「壹」は古代中国語と江南(揚子江より南)に分布する方言
客家方言jitユイ(ト)*、広東方言 jatヤッ(ト)、福建方言でcitチッ(ト)という具合に
末尾にtという内破音を持ってる。
*()でくくったカナ表記はローマ字表記すると頭子音だけ発音して
母音は発音しないという意味。
趙匡胤が建国した北宋が1127年に女真族の金が靖康の変で徽宗と欽宗の親子を捕らえて滅亡させたのち
南宋時代も後半になると-t,-p,-kという発音ががいいかげんになって
モンゴル征服王朝時代になるとついに消滅した。
消滅後の発音は泰定1 (1324) 年に成立した中原音韻という資料で分かる。
それによると壹はyi≒イで現代の標準中国語の普通話(中国語でプートンホワと呼ばれている)。
後漢書 邪馬臺
「臺」は北朝系でダイという濁音始まり。北京官話で低音から高音へ周波数が高くなるように発音する。
四声という伝統的なトーン・アクセントで濁音始まりの漢字は低音始まりで発音するという法則が
盛唐ごろから起きてその後清音化してもその傾向が北朝系北京官話に於いて現代まで受け継がれている。
南北朝(黄河の中・下流域の地方。河北・山西・山東・河南の四省)のいずれかに都を置いたのが北朝、
揚子江より南に都を置いたのが南朝で
中国の南朝の時代の発音の伝統を継承した客家方言でtoi(初唐ぐらいまでドイだったが安史の乱755年~763年以降トイと清音化した。)
広東方言toi、香港新界に住む福建省出身者はtoiという発音
隋書 邪靡堆
「堆」は現代中国の標準語(北朝系)でduiトゥイ(イントネーションは異なるけど対馬の対の中国音と同じ)
南朝系客家方言でdoi(安史の乱以降ドイからトイに清音化)
南朝系広東語deoiとかzeoiと発音する。
惟 現代中国の標準語(北朝系)でweiゑい これは「為」を but, however, nevertheless; onlyの意味で使う時の発音と同じ
客家方言でwiとかwui、vuiという発音がある。
広東方言は 発音記号でuɐi、英文タイプライターで打てるようにwaiと綴る場合もある。
福建系方言はui、zuiツイ、miミ、βei(βは有声両唇摩擦音peiからfeiに変化する途中の段階の音、
現代日本語でも任意の母音の後ろの唇をやんわりと破裂させるバ行の子音として現れる)
これらの方言音と比較すると「ヤマタイのタイ、ヤマトのト、ヤマイのイ」に似た中国各方言音が無いので
旧写本の「堆」の写し間違いとしか考えようが無いのではないかという結論に達した。
壱岐、糸島、松浦など魏志倭人伝に記されたのと同じ地名が北部九州にはある
さらには糸島の隣にヤマト(下山門、上山門)がある
邪馬台国がどこにあるのか確証はないが、魏志倭人伝に記された国は北部九州にぜんぶある
つまり、魏志倭人伝が書かれた頃に国交があったのは北部九州の国々
近畿圏は飛鳥時代以降の話
邪馬台国とか卑弥呼とかはまったく関係がない
ちょっと違う気がする
出土品が少ないような
>>70
卑弥呼は鬼道ナンチャラなら、
ヤマト国の中心地の都市ではなく、山にこもって住んでて祈祷してそう。
前スレでヤマトとヤワタ(八幡)の発音が似てるのが気になると書いた者ですが、何でも「八」が
つくのも気になります。ヤワタのオロチとか、
ヤタガラス(八咫烏)とか。
>>70
巫女が、御子じゃなくて弥呼ミク(めこ=娘)から来ているなら、
そうだな。
卑彌呼(ピミク/ピミコ)今の音に直すと ひめこ だ。
こ(息子) と めこ(娘)が対義語の場合、めこ は めで代用される。
よって、ひこ ←→ ひめ となる。
をとこ(をつ(=若い)+子)←→ をとめ(若い娘)
むすこ(産す+子)←→ むすめ(産す+女)
と同様だ。
出雲族圏:近畿とその周辺地域
ね。
奴国だろー。実際は、開墾。
吉備、東海に渡来人引き連れて開墾。
近畿に鏡が大量に出る理由、九州式土器がほとんどない。古墳が巨大化は残土処理も兼ねている。
仮定に過ぎないがね。
少なくとも4世紀には一国としては日本列島最大勢力になってたと推測するかな。
3~4世紀辺りはトータルとしては九州北部の方が勢力があったが、
統一王朝がなかったと思ってる。
>>106
俺の予測では、2世紀終わりの倭国大乱で出雲が滅び、
これで邪馬台が万事休すになったのではと。
ま、奈良による出雲統一ということだわな。
あ、ということは、魏志倭人伝にある、渡海して
また国有り皆倭種 とされてる本州と思しき地は、
もう奈良により統一されてたということだな。
ああ、これぞ「大倭」だ。
邪馬台の港を牛耳っている「大倭」とは、これだ!
大乱で奈良が新覇権国に成り邪馬台の港を支配と思ってたが、
覇権国ってレベルじゃなく、本州をもう統一し、九州もだな。
大和朝廷による統一は4世紀じゃなくて2世紀終わりだわ。
ここで議論してたら、なんか段々実像が見えて来た。
2世紀その頃の出土はほぼ皆無だよ。
だから土ほじくったって、全てが見える訳じゃない。
ほじくった土地なんて、ほんのわずかだ。
鉄が貴重物資だった時期なら、全く出ないことも。
出雲は滅んでないでしょ。
神無月に日本各地の「かみ」(=王)が出雲に集まるとかは
古墳時代の話じゃないかと推測するかな。
古墳時代が始まった頃は大和政権内で多大な影響力を行使してたと推測するかな。
3世紀中頃大和政権誕生、出雲族圏を統一しただけで
西は吉備・出雲までと推測するかな。
大和朝廷は磐井の乱後九州北部を併合して、その数十年後に発足したと考えるかな。
乱というのは、統治領域の中から起きる反乱
のことだわ。
つまりそこを統治していた、ということ。
あれって秦氏の九州から畿内への移動と関係あるのかね
引用元: ・【佐賀】「よみがえる邪馬台国」展、「豊前の国」に焦点 「九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」 ★2 [樽悶★]
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