「沖田の剣は猛者の剣、斎藤の剣は無敵の剣」と新撰組二番隊組長・永倉新八が喩えるほど、2人の剣は甲乙つけがたい。しかし、そう喩えた永倉や副長・土方の剣が、沖田・斎藤の後塵を拝したかというと一概にそうとも言い切れない。新撰組はそれほど精鋭揃いであったのだ。 慶応3年(1867)、そんな新撰組で「油小路事件」と呼ばれる内紛が勃発する。思想の違いから離隊した二刀流の元隊士・服部武雄は、40名とも50名ともいわれた新撰組を相手に孤軍奮闘。
たった7名の味方とともに剣を振るったが、さすがに多勢に無勢。最期は果てた服部だが、猛者の集まりである新撰組隊士の剣を受け続けた彼の太刀筋はいかなるものだったのか。また、そもそも服部と新撰組のあいだには何があったのだろうか。
入隊までの経緯とその後の活躍
服部は元治元年(1864)、慕っていた伊東甲子太郎(いとうかしたろう)とともに新撰組に入隊、五番隊に配属される。翌年には、諸士調役兼監察・撃剣師範に任命。ちなみに、諸子調役兼監察は規律に反した者を処罰するための証拠集めが職務。平たく言えばスパイである。
同年11月には近藤らと長州に出張、慶応2年(1866)の三条制札事件でも目付役としても活躍している。服部は当時でもめずらしかった二刀流の使い手としてだけでなく、槍術や大柄・剛力を活かした柔術にも優れた武人でもあった。
まとめ上げるのに一苦労!芹沢鴨を追いやった新局長・近藤勇
新撰組は猛者の集まり。また中には癖の強いものもおり、まとめ上げるのも一筋縄ではいかなかった。
近藤勇はカリスマ性のある局長というイメージが強いが、正確には最高位の局長としては2代目である。初代局長は芹沢鴨、近藤勇、新見錦(にいみにしき)の3人体制で、そのときの筆頭局長は芹沢であった。 芹沢は、あの人気漫画『るろうに剣心』の登場人物・志々雄真実(ししおまこと)のモデルにもなっている。志々雄は、るろうに剣心のなかでも屈指の悪役。志々雄を知る人は、そのモデルとなった芹沢がどんな人物か想像がつくのではないだろうか。
もともと新撰組は、文久3年(1863)に壬生浪士組(みぶろうしぐみ)として活動を開始している。この時からすでにいくつかの派閥があり、折り合いも悪く、近藤は自分とは別の一派である殿内義雄(とのうちよしお)を暗殺・粛清。その後は近藤と芹沢の二派体制が続いたが、やがて芹沢さえも暗殺。自身が指揮する一派体制を敷いたのだ。
振り返ってみると、京都の治安維持が目的であるはずの新撰組も内部は結構もめている。毒をもって毒を制すとでもいうべきか、当時の京都を鎮めるには何はともあれ武威が必要だったのかもしれない。
運命の油小路事件
服部が懇意にしていた伊東は勤皇思想の強い水戸学に精通しており、兼ねてから幕府側の新撰組の在り方に疑問を抱いていた。慶応3年(1867)同志らを引き連れて新撰組を離隊すると、独自に御陵衛士(ごりょうえじ)を組織し、服部もこれに随伴した。 そもそも近藤と伊東の思想は真っ向から対立しており、遅かれ早かれ衝突は避けられなかったようにも思う。伊東が計画していた近藤暗殺を、新撰組側のスパイとして潜入していた斎藤が阻止したとの説もあるが、両者の対立が決定的となったのは、御陵衛士が幕府と敵対していた長州藩に対して寛大な処分を主張したためではないだろうか。これに激怒した近藤が酒宴を口実に伊東を呼び出し、酒に酔ったところを殺害。さらに油小路に放置した伊東の死体を取り戻しにきた御陵衛士らを、待ち伏せていた新撰組隊士らと襲撃した。
諸説あるが『史談会速記録』によれば、このとき出撃した新撰組の人数は50人にものぼったと言われ、斎藤や永倉をはじめ十番隊組長・原田左之助の姿もあったと言う。これに対して御陵衛士は7名。民家を背に奮闘した服部も、最後は刀が折れた隙を原田に突かれ、新撰組隊士らに一斉に斬りかかられたという。 しかし、この新撰組と御陵衛士の対立はこれで終わりではない。事件のおよそ一月後、御陵衛士の生き残り篠原泰之進(しのはらたいのしん)が、近藤を伏見街道で待ち伏せし右肩に重傷を負わせれば、翌年の慶応4年/明治元年(1868)に勃発した戊辰戦争で敗走した近藤を、新政府軍が捕縛。大久保大和と名を偽った近藤を、元・御陵衛士で新政府軍に参加していた加納鷲雄(かのうわしお)が看破したことで、近藤は京都・三条の河原で斬首刑となっている。暗殺と粛清を繰り返した近藤の最期が、元々は志をともにしていた新撰組隊士によってもたらされたと思うと何とも皮肉な話である。
服部武雄の強さは未知数
服部武雄の剣士としての強さは、ベールに包まれている。そもそも日本刀は両手で持つことを前提に作られているため二刀流の流派や剣士自体、非常に稀なことである。剣豪・宮本武蔵が二天一流を創始するに至ったのは恵まれた体躯と人並外れた腕力によるものと考えられており、大柄・剛腕で知られた服部も片手で刀を振るのに不便を感じなかったためであろう。
新撰組への入隊が比較的遅く、また幹部ではなかった服部の記録は極端に乏しいが、油小路事件での死に様について、事件後に現場を見た者の証言がある。それによると、両手に刀を握ったまま大の字になって倒れ、全身に20以上の傷を負い流血しながらも血色はよく、まるで眠っているかのような死顔だったという。 伊東を慕っていた服部からすれば、ここを死地と決めていたのではないだろうか。生き延びることよりも、伊東のため、より多くの仇を討ち冥土の土産としたのかもしれない。
人は記憶型と思考型に大別できる
誰が一番強いかだ。
近藤勇
土方歳三
芹沢鴨
沖田総司
永倉新八
斎藤一
原田左之助
服部武雄
吉村貫一郎
藤堂平助
山崎烝
山南敬助
>>4 の続き
服部は伊東の亡骸を引き取りに行くとき鎖帷子を着ていたそうじゃないか
死闘を覚悟してたんじゃね
そして仲間を逃がして果てたと・・・・
見た目のカッコよさに釣られてるだけで
美化できる要素なんて本当はないんだけどね
池田屋事件だって根拠のないデッチ上げでの襲撃だし
偽物?
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