邪馬台国はどこにあったのかー? 日本史最大のミステリーにこの夏、新たな説が登場した。タイトルはずばり「邪馬台国は別府温泉だった! 火山灰に封印された卑弥呼の王宮」(小学館新書・840円税別)。
著者は、従来の学説にとらわれない柔軟な思考で古代中国の文献「三国志 魏志倭人伝」を丁寧に検証している。別府温泉の湯煙を思い浮かべつつ読めば、大分県人の夢広がる一冊だ。
著者の酒井正士さん(64)は東京都出身。東大農学部卒業後、ヤクルト本社に勤務し、脳機能改善や老化予防のための医薬品・食品開発などに力を注いだ。
邪馬台国の「謎」に興味を持ったのは約10年前。「邪馬台国の秘密」(高木彬光著・カッパノベルズ)がきっかけだった。歴史には門外漢の酒井さんだが、邪馬台国に関する文献を読みあさり、在野の研究者が集う「全国邪馬台国連絡協議会」の会員になって独自の研究を進めてきた。
着目したのは、魏志倭人伝に残された「距離と方向」に関する記述だ。多くの学説は、古代中国の使節がまず日本に上陸した「末廬国」(まつろこく)を現在の松浦地方(唐津市)としている。これは「まつろ」と「まつうら」という、地名の類似からきており、邪馬台国研究の“元祖”である、江戸時代の朱子学者・新井白石が提唱したことも大きい―と酒井さん。
同じように、使節の行程記録にある伊都国(いとこく)は糸島市とする説が多く、「九州説」「畿内説」のベースとなっている。しかし魏志倭人伝には、伊都国は末廬国の南東に位置するとの記述があり、2都市の実際の位置関係である「東」とは方向が異なる―と、酒井さんは指摘する。
「高い測量技術を持ち、古くから正しい方角を重視してきた古代中国人が書き残した魏志倭人伝は、距離や方角について正確に記載されていると思います。現代に残された“生データ”を分析し、私は末廬国を北九州市として、その他の国の場所を推定していきました。すると、現在の日向街道を別府方面に進んだ道筋が、距離・方向ともに魏志倭人伝の記述とぴったり一致するのです」。
酒井さんは実際の地図や地形図、航空写真などの資料をインターネットなどで入手し、魏志倭人伝の記述を照らし合わせた。そして、最終的に邪馬台国は別府市街にあった―と結論しているが、その遺跡は残念なことに、貞観9年(867年)の鶴見岳・伽藍岳の大噴火によって火山灰の下に埋もれてしまったのではないか―と考察している。
「別府市街地の海岸部をのぞく一帯は奈良時代と平安時代の2回の噴火によって火山灰に埋め尽くされた―と考えます。地下には、イタリアのポンペイ遺跡のように、古代の遺跡が手つかずのままに残されているのでは―。調査したら遺物が出てくるかもしれません。
9/11(金) 11:37配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200911-00010001-mjikenbo-l44
★1:2020/09/15(火) 11:33:25.01
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1600378371/
>>2
>>1
いや、やっぱり邪馬台国は『宇佐神宮』だろう・・・
大分県内でも最も有力なのは“宇佐説”。
「宇佐神宮の主神、比売大神こそが卑弥呼で、
神宮の立つ亀山が卑弥呼の墓である」。
鬼道に長けたとされる卑弥呼であれば、
八幡宮の総本山と崇められるのも不思議はない。
推理作家の高木彬光氏は、「卑弥呼の跡継ぎは
台与(とよ)である事から大分を豊の国と呼ぶ」と指摘している。
.
sssp://o.5ch.net/1prjr.png
>>5
>>1
> 最も有力なのは宇佐説「宇佐神宮の主神、
> 比売大神こそが卑弥呼で、
> 神宮の立つ亀山が卑弥呼の墓である」
うん、「邪馬台国」の“宇佐説”・・・
(1)卑弥呼=比売大神=天照大神
(2)宇佐神宮の亀山が卑弥呼の墓 宇佐神宮本殿
(3)謎の石棺の目撃証言
(4)奴婢百余人の徇葬と百体神社
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/yamataikoku.pdf
.
sssp://o.5ch.net/1prjs.png
邪馬台国って、盛んに言うけど、弥生人のような暮らしだろ?
誇るようなものではない
その頃、海外では、ローマ帝国最盛期で、ローマ市民は公衆浴場で温浴やサウナの娯楽施設で楽しむ生活の余裕があった
世界から見れば、日本は文明の遅れた島国のド田舎者と当然の扱い
恥ずかしくないの?
戦争に次ぐ戦争で負けたら奴隷の社会がそんなに羨ましいか?
全国民中級階層と貧富の差が激しく
一部の支配者によって大多数の貧民がこき使われるのと果たしてどっちがいいだろうか。
ローマは世界じゃないぞ
アメリカは未だ石器時代だし、大部分のヨーロッパも当時の日本人と大して変わらない生活をしていたし
今のイラン辺りの方が文化的な生活をしていただろう
インドは今と大して変わらない。インドは今も昔もインド人の国だからな
夢があるな
邪馬台国はフィリピンだった!
かもしれないならわかるけど
まあタイトルとか帯とか編集が売れそうな線狙ってつけるから
中身と無関係のこともある
近年の考古学上の発掘事例と、
魏志倭人伝の記述を照らし合わせた結果、
畿内に邪馬台国は存在し得ず、
北部九州が唯一の候補地である事が
既に確定しているのである。
843 名前:不要不急の名無しさん[] 投稿日:2020/09/17(木) 21:20:14.52 ID:aLmEXdvD0 [1/2]
>>841
それは基礎知識じゃなくてただの間違いだよw
もっと言えば畿内説学者によるデマ
中国鏡の年代は文字記録のある中国側で詳細に研究されはっきりしている
文字記録のない日本の年代観よりずっと正確なのは言うまでも無い
その中国の銅鏡研究者の見解では魏やその後の西晋の鏡は九州北部が出土の中心
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、夔鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
中国の学者が言っているのか
古代の事になると天皇制が絡んで日本の研究は忖度が入る疑いがあるから
そういう足枷がない中国の学者の意見は凄く貴重だと思うんだよね
やっぱり3世紀は九州が中国との関わりが強いよな
その時どきの都合で材木切って組み上げた大きい掘っ立て小屋と卑弥呼がいればいい
都市として大規模な整備もしない都なんてころころ変わったんだろ
平城京以前は都なんてなかったでいいよ
手を変え品を変え、次々と珍説を連発するだけw
九州派の連中自体、九州のどこが邪馬台国だという強い思いも無い
「九州のどこかであってくれればいいな」
こういう気持ちが九州説の発端w
>>20
そういう真理探求から外れた邪な動機があるから畿内派は駄目なんだわ。九州派は別に九州であって欲しいとか思ってるわけではなく、地名や歴史書から九州が有力だと思うからなわけで。
畿内派の何が何でも畿内でなければいけない、というような動機は九州説派には理解できないね。
邪馬台国ハワイ説、~サハリン説、~アラスカ説、
~セイロン(スリランカ)説、~マダガスカル説、・・
いろいろとあるようです。
畿内説派ってさ、全く物証や考証を示さないよな
魏志倭人伝
「自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶不可得詳」
「自女王国以北 特置一大率 検察諸国 ・・・ 常治伊都国」
邪馬台国畿内説では、この『自女王国以北 ~~~』を説明できない。
女王国が大和にあれば以北に在る伊都国などは山城・近江・若狭あたりになければならない。
入るときも、国の説明の時も、畿内にある地名が一切出てこないのに、畿内ガ~w
近畿なんて女王国東渡海千余里復有国皆倭種だけど絶遠だから詳細わかんねーで終了だよな
ざっと読んだけど今の畿内派は残りかすみたいな奴らばかりやわ
何一つ得られるものが無い つまらん
もっともっと知識つけてから来いや
空想マンも罵ることと中傷と嘘と捏造だけだな
魏志倭人伝に宮崎の妻国の記述があるのに、
その手前の豊の国の記述がない事、
そして豊の姫が邪馬台国の女王になっている事から考えて、
豊の国と呼ばれる大分県は、
邪馬台国の一部だったと考えられる事だ。
そしてその力は、卑弥呼の次の女王を出すぐらい大きかったと見ていい。
卑彌呼(ピミコ)だよ。当時の漢字の発音は。日本語の発音も。
ヒ(ハヒフヘホ)の音が出来たのは、なんと、江戸時代!!
昔は、波比不部保(はひふへほ)と書いて、パピプペポと発音。
卑彌呼の卑は、日本語のお日様の意味だが、これが日(ピ)だ。
おピさま だなw
卑弥呼もだが
邪馬台国もな
今の音に直せばそうだろうな。
当時と今の発音の変化もあるが、
当時の九州と近畿の方言の違いも加わる。
一つ教えといてやる こんなことは十年以上前から論争のたびに
答えは出て来てた
まぜ陳寿が12000里に拘ったのか、古来中国は世界の大きさを
儒教経典から取って来てた
それはあの時代親魏〇〇王と金印を賜ったのは、日本と大月氏国のみ
そして洛陽から大月氏(インド・クシャナ王朝とする)までの距離は
17000里と書かれてる
つまり同じように扱わなければならない 洛陽から帯方郡まで5000里と
書かれてる(なんの書物か忘れたw) だから残りは12000里で
なければならない それだけのこと
渡邉義浩氏も似たような事を言っていたな
中国を中心として西と東に大国があって中国の得を慕って朝貢してきたという世界観を表現しているらしいね
だから都からの距離は東西バランスが取れるように数字を操作してあるという
邪馬台国が、実はローマ風呂の様な温泉社交場で卑弥呼が温泉花魁だとしたら・・・
近畿説支持の学者は一斉に引きそう(笑)
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王
でもキミは全く分かってないじゃん
ただの煽りカスですわ
でもまだこの頃は定住してなくて食料を求めて移動してたから
どこにあったってのあんまり意味がないんだけどな
引用元: ・【大分】「邪馬台国は別府温泉だった!」日本史最大のミステリーに新説 「距離・方向ともに魏志倭人伝の記述とぴったり一致する」 ★4 [樽悶★]
コメント