日本に攻めてきた時既に全盛期じゃなかったか?
戦国時代といっても長いですが。応仁以降か、文明以降か、それとも明応以降か。
時期によっては少弐を大内・大友や菊地が援助することになるのでは。
幕府はどう出るのでしょうね。
全盛期のモンゴル軍というのも、どういうものかよく分かりません。
騎馬なのか徒歩なのか、モンゴル人主体なのか漢人主体なのか、火器は時代
に応じて発達しているのか否か。
戦国日本に勝てるわけないぞ。
日本は山多いからそれなりに戦えるのは戦えると思う。
しかし、野戦の類は間違ってもやるべきではないと思うね。
基本持久戦の鉄砲攻撃でいいと思う。
あと、モンゴル軍に略奪を許さないように、民間人の移動とかどこで戦線張るか
とかを熟考するべし。
まあそんなことしてもゴビ砂漠越えて侵攻してくるから、あんま意味ないかもな。
山だろうと川だると難地形だろうと、関係がないらしいとモンゴル関係の書籍には
乗ってる。 意外と野戦でも柔軟で馬から下りて山を迂回して、奇襲するとか
いった戦術的柔軟性も持ってる。
まああれだ。海軍増強という視点にたって上陸させないということがベストでは
ないだろうか。
せめてオスマン・トルコにしろよ
銃も砲も充実しているオスマン軍に為す術もなく、蹂躪され、大坂城はウルバン
の一撃で吹き飛ばされ、秀吉はイェニチェリの足下に平伏して斬首されるであろ
う
ウルバンの命中率ご存じ?
てか、今の相撲を何とかしろよ
完全にモンゴル人に支配されているではないか???
秀吉軍が朝鮮半島を進軍したところで世界地図上ではわずかな距離にしかならない
捕虜を約2万得たうちの蒙古人・漢人・高麗人の捕虜は処刑し南人(南宋)人は生かして
御家人に分配した。元側の記録でも生きて帰れたのは10人に1~2人に過ぎなかったと記されている。
指揮官・幹部は頑丈な船で逃げのびて生きて帰れたようだが、遠征失敗と咎められ責任をとらされて処罰されたという。
日本側が捕虜にできたのは鷹島という江ノ島ほどの小さな島に暴風雨により難破
し避難していた者達で
島の面積や暴風雨により糧食を失ったところから見て到底、万単位の人間がいら
れるはずがない
元史卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本
「五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びてこれに乗り、士卒十余万を山下に棄つ。
衆議して張百戸なる者を推して主師となし、これを号して張総管といい、その約束を聴く。
方に木を伐りて舟を作り還らんと欲す。七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、
そのために虜去せらる。九日、八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍は唐人たりといい、
殺さずしてこれを奴とす。」
元韃攻日本敗北歌
「二十万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る船がなく、倭人のためにことごとく殺される。」
自分が都合のいいところだけ抜粋するなよ
敵の甲冑や武器など物証が引き揚げ品以外ほとんどない
物証なしに文献に全く批判せずに鵜呑みにするのは愚の証明
応永の外寇で宗氏が朝鮮軍に反撃したなどは後世に創作されたことであり
実際には朝鮮軍が倭寇をある程度征伐した後、対馬各地に柵を作り兵糧攻めにし
た
対馬が朝鮮から直接受けたり、交易による利益で得て食糧を頼っていることを知
っていたからだ
宗貞盛は案の定、根を上げ朝鮮軍に「(元寇時のよう
に)且つ曰く、七月の間、恒に風変あり、大軍宜しく久しく留るべからず」と泣
き付いたのが史実。元寇時に暴風雨により元軍が撃退されたことを示している
これを記した文献は応永の外寇によって事実上(若干の例外を除き、特に対馬の
)前期倭寇に終止符をうったことで信頼できる
前期倭寇の最も有力な頭領で宗氏より実力のあった対馬の早田氏は朝鮮にへつら
い朝鮮との交易に専念することになった
おまえって本当に何も知らないんだな
元寇でボロ負けした元軍の遺品なんて沢山残ってるぞ
ほとんど海から引き上げたやつばっかじゃん
まじになってるとこは笑えるw
700年前の革鎧や弓が海底で原形留めてるわけないだろ
だからそれが何体分あるんだぁ?数万点か?
上陸戦で舟が失われたらほとんどの敵兵は普通戦場で捕われるはずだけどな
しかし日本側が捕虜にしたといわれるところや戦利品のほとんどは戦場から遠い
鷹島じゃないか
難破した舟の一部乗員が鷹島に上陸し避難しただけの話だろ
他は沖合の海中に沈没したか辛うじて渡海して戻れたかだろう
ベトナムは戦闘に勝って戦場で敵の司令官始め敵兵の多くを捕虜にしてるがな
>>28
お前、勘違いしてるぞ。
弘安の役の上陸戦でなんか舟は失われていない。
元軍は上陸戦で日本軍にボロ負けして敗走。
それから2ヶ月間、追撃する日本軍にひたすら負け続けて鷹島にたどり着いたわけ。
だから日本軍と元軍の最後の戦場は鷹島。
あと、ベトナムが日本より多くの敵兵を捕虜にしたなどという事実はない。
笑える新説登場ってかw
元軍主力が弘安の役で上陸戦を戦ったのは博多湾入り口の志賀島ですがw
これは概説本の殆んどに記載されておりますが、何かw
それに鷹島は初期に松浦党があっという間に敗北壊滅して元軍に制圧されており
ますんですがねぇw
鷹島で最後の戦い?
難破して武器も戦意も失って、しかも屯田目的で粗末な武器と農具と種籾持って
ただけの旧南宋の老兵をパクっただけの話じゃねぇかwww
だから、その上陸戦を戦った志賀島の戦いで元軍は日本軍にボロ負け。
2ヶ月間逃げ回って最後の戦場の鷹島で全滅した。
>>30
元が3度目の日本遠征よりもベトナム遠征を選んだのは、ベトナムの方が日本よりも
遥かに弱いから。
史料に書かれたベトナム遠征の数字は、日本遠征よりも遥かに少ない人数。
ベトナム軍に惨敗し元の王族の司令官を始め多くの捕虜を出したなどという話も単なるデマ。
元の王族はベトナム軍蹴散らして、無事帰還している。
それから、ベトナムが元軍に勝ったという物証は?
>>34
バッカじゃねぇの
日本だけの文献だけが正しいってか
大笑い
日本なんか東南アジアより農耕も金属器製造もはるかに遅い後進国なのに出世したなあ
>>36
お前はほんと餓鬼かよ
ハノイの歴史博物館行ってこい!
ベトナム軍が干潮になった時に元の軍船を座礁させるため打ち込んだ杭まで残っ
とるわ
・チャン・フンダオの戦歴
1257年ウリャン・ハタイ率いるモンゴル軍を破り、大損害を与え撃退
1284年フビライの息子トゴン、将軍ウマル率いるモンゴル軍をヴァンキェップの
戦いで大破
この敗北に怒ったフビライは第3回日本遠征用に準備していた軍船全てを投入さ
せ、1287年陸路から騎兵、水路から水軍を投入し侵攻したが、白藤江で先の戦法
で次々座礁させた軍船を攻撃し、将軍ウマルを始め多くの捕虜を得、大勝した
彼はその後「兵書要略」「万刧尊秘伝書」で元軍を破った兵法書として著した
>>38
1257年ウリャン・ハタイ率いる3000人のモンゴル軍に首都を破壊される。
その後、ベトナムにはダルガチが配備され、モンゴル帝国の属国に。
1284年、チャンパー攻撃のついでに侵攻したモンゴル軍にまたもや首都を制圧される。
聖宗の弟の昭国王陳益稷など陳朝の有力者が大量にモンゴル軍に投降。
1287年にベトナムが白藤江で勝った元の水軍は僅か500艘程。
何故なら、元の海軍はその前の弘安の役で3500艘の江南艦隊が壊滅するという大損害を
受けていたからな。
つまり、ベトナムが助かったのは日本の御蔭だ。
>>39
バーカ、ベトナムが元の属国になんかなってないだろ
太宗が聖宗に譲位してから朝貢しただけだろ(古代日本を考えろよアホ、冊封さ
れた国はみんな属国かよバカな奴め)
それにウリャン・ハタイは2日でハノイから退却を余儀なくされてるだろうが
対馬、壱岐、鷹島で惨敗制圧されてることは棚上げか
松浦党は壊滅状態じゃないかよ
まったく、文永の時は博多湾内で戦ったのはわずか1日
モンゴル兵なんかわずかな監視役を除けばいないし
だいたい馬は海港に横付けしたわけでもないのにどうやって下船したり、小舟に乗り移るんだよw
馬が縄ばしご降りたとかw
普通、馬は自分の背丈以上の深さのある海を怖がるはずだがなw
ノーガキはいいから火砲やビザンツの火炎放射器、チャン・フンダオみたいに干
潮時座礁させるような仕掛け以外に数多い大船を沈める戦法とやらお聞かせ願い
たいなぁwww
暴風雨以外にねwww
小舟で奇襲したところで歯でカジっても沈まんと思いますがぁwww
本末転倒なこと言ってるじゃねぇよww、ベトナムが第3回日本遠征を阻止してくれたんだろ
高麗は6回の遠征でようやく制圧下に入った
とても本格侵攻と思えぬ文永を除けば後5回の遠征も耐えられるんかねぇw
モンゴルのダルガチがベトナム国内に配備されてる状態はあきらかに属国だろ
>>47さん、気にするなよ
>>45はここのジャンルの鎌倉なんとかとかいうくだらないスレで
ウリャンハタイが3000の兵だけ率いてきた来たとかトンデモ言ってる奴だからよ
ウリャンハタイはモンケ・ハン配下でフビライとともに大将軍と知られていた
それがたった3000の兵指揮するためにわざわざ出てくるわけないのにな
後に南宋で苦戦しフビライに救出され兵が激減したときでさえ数千いたのにさ
まさかと思うが奴は安南志略をもとに物言ってだろ
安南志略の著者は元のトゴンに降伏した陳朝の王族陳鍵の幕閣であった黎
陳朝の反撃で陳鍵が戦死しトゴンと共に元へ逃亡
その後、漢陽に住んで元の立場から安南志略を著した
従って正当な史書である大越史記(全書)とはかなり違う記述になっている
とにかくヴェトナムにはウリャンハタイやトゴンのような名のある将帥が
指揮する正規軍が侵攻してきて
日本にはたいした戦闘経験もない指揮官に僧侶や流民を強制的に捕まえ
武装した者や南宋の老兵を指揮した烏合の集団が一応攻めてきただけなのさ
>>52
の言う通り3000だけじゃなかったわけじゃないか
誤魔化しは酷いだろう
>>55
何でそうなるんだよ?
ウリアンハダイのベトナム侵攻についての元史の記事はこれ↓
元史卷二百九
「乃遣徹徹都等各將千人,分道進兵,抵安南京北トウ江上,複遣其子阿術往為之援,並覘其虚實。交人亦盛陳兵衛。
阿術遣軍還報,兀良合台倍道兼進,令徹徹都為先鋒,阿術居後為殿。」
先鋒の徹徹都、本隊を率いる兀良合台、殿軍の阿術の各将がそれぞれ1000人を率いていたんだから、
ベトナムに侵攻したモンゴル軍の兵数は3000人だけじゃん。
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